『父のトランク』
「父のトランク」オルハン・パムク著
ノーベル文学賞受賞講演
『父のトランク』
亡くなる二年前に、父は自分の書いたものや、メモや、ノートの詰まっ
た小さなトランクをわたしのところに持ってきました。いつものふざけた、皮肉
な調子で、後で、つまり自分の死後、それらを読んで欲しいとあっさり言いました。
「ちょっと見てくれ」とやや恥ずかしそうに、「何か役にたちそうなもの
があるかもしれない、その中に。もしかしたら死後、お前が選んで出版し
ても」と。
わたしたちはわたしの仕事場で、本の間にいました。父は、彼を苦しめ
る特別な重荷から救われたがっているかのように、トランクをどこに置こうか
と、わたしの仕事場を見回していました。それから手に持っていたも
のを目立たない片隅に、そっと置きました。ともに気恥ずかしく感じていたこの
忘れ難い瞬間が終わるや否や、二人ともいつもの自分たちに戻り、人生を軽く受
け取る、ふざけた、皮肉な人間に戻って、ほっとしました。いつものようにいろ
いろなことを、人生やら、尽きることのないトルコの政治問題やら、たいていは
失敗に終わった父の仕事のことなどを、あまり深刻にならずに話しました。
父が帰った後で、わたしはトランクの周りを何度か行ったりきたりしま
したが、トランクには手を触れなかったのを覚えています。小さな、黒い
革のトランクを、その錠を、丸っこい角を、はるか子どもの頃から知っていまし
た。父は、短い旅行に出かける時とか、時には家から仕事場に何かを運ぶ時、そ
れを持っていきました。子どもの頃、この小さなトランクを開けて、旅行から
戻った父の品物をかき混ぜて、中から出てくるオーデコロンや外国の匂いが気に
入ったのを思い出します。このトランクは、わたしにとって、過ぎ去った過去
や、子ども時代の思い出の多くがこもっている、よく知っている、魅力ある品物
でしたが、そのときはそれに触れることさえできませんでした。どうしてか?
もちろんのこと、それはトランクの中にある、隠された、神秘的な重さゆえです。
今、この重さについて話そうと思います。・・・・
2007年株式会社藤原書店発行 和久井路子訳